放課後の硝子窓 (4)
キーホルダーは小さな棚の上に乗っていて、簡単に見つかった。誰かかが見つけて置いといてくれたのだろう。颯爽と職員室に戻ったら、川俣先生に外に連れ出された。校庭に出ると、生徒たちはとっくに帰宅していて、ほのかに吹く風に揺れ、擦れ合う葉の音だけが聞こえる。先生は隅に忘れられたように置かれているベンチに腰掛ける。私も隣に座る。
「なんで、教えてくれなかったんですか?」
「その方が、面白いだろう」
理科室に現れる幽霊。それは、人体模型と擦り硝子が作り出すものだった。ただの硝子ではなく、擦り硝子。学校という施設は子供の安全を考え、手の届く範囲の硝子は割れにくい擦り硝子を採用することが多い。そのため、理科室のドアの窓硝子にも擦り硝子が張られていた。そして、この擦り硝子というのは硝子のように透明ではないため、向こう側がほぼ見えない。しかし、ほぼ見えないのであって、ある程度近づくと、反対側からはぼんやりと形が見えるのである。
「面白くないですよ、めちゃ怖かったんですから」
「すまん、すまん」
先生は面白がっているのか、笑っている。なんだか、いつもの先生ではないみたいは表情だ。
「これ、誰にも言うなよ。じゃないと噂の意味がないからな」
外に連れ出したのもこの話が、他の先生にばれないようにするためか。
「何であんなことしているんですか?」
「面白いからさ。学校には怖い話が一つや二つあるのが定番だろ。でも、この学校はその類の話がなかったから作ったってわけさ」
簡単な答えだった。「「理科室の幽霊」」はそんな簡単な理由で姿を現していたのか。ちょっとがっかりしたが、安心もした。
「それに、うちの学校の理科室は、なるべく授業以外は生徒を近付けないようにするように上から言われているからな。理科の先生としては寂しいもんだから、噂話にでもして理科室に興味を持ってもらおうとしたのもあるな」
先生の声色はどこまでも穏やかだが、その話には引っかかるものがある。
「それって……」
私のいた頃にはなかった噂話を作るようになった理由。いや、本当は分かっている。先生が噂話を作るきっかけになったことも、理科室が生徒たちから遠ざけられている理由も……。今の雰囲気なら聞ける気がする。そうであってほしくない。でも、聞かずにはいられない。
「それを作るきっかけって、あれのせいですよね……」
空気が変わる。
「昔は窓もドアも開けっ放しだったからな」
先生の目は過去を覗くかのごとく遠くを見つめている。
「お前はここを卒業する前の日、理科室に忍び込んだ」
先生は思い出したように語り始めた。自分の記憶をさかのぼること八年前。私はもう高校生にもなるんだ。東京に出て、教師を目指すんだ。これからは一人でやっていかないといけない。
「アルコールランプを持ち出して」
いや……、やっていけないかも知れない。本当はさみしかった。地元のみんなはほぼ近くの高校に進学する。都会に一人暮らしをしてまで、出ていくのは少人数。今更、行きたくないなんて遅いかも……。
「ちょっとした火事になって」
でも、事件を起こしたら行かなくすむかも知れない。ほんの出来心だった。私は燃えているアルコールランプを机に置いた古紙にこぼした。燃える、燃える。やがて机も燃え始めた。火は勢いを増していき、逆に頭は醒め始め、事の重大さに気づく。しかし、動けなかった。何もかもが怖くなって身体がいうことを聞かなくなったのだ。熱い、熱い……。
「それで燃えている机の前で立ち尽くしていたお前を連れ出した」
熱い火が目の前に立ち上る中、聞こえる声。「大丈夫か!葛城!」引かれる腕。足が動き出す。私は校庭に連れ出され、家に帰るように言われた。
「理科室に戻ると、机が一台だけ燃えていてすぐ消せたんだが、そのあとが大変でな。誰の責任だとか、何で燃えたんだだとか」
家に帰った後、私は高校に行けなくなるのを覚悟していた。あんなことをしてしまったんだ、何の御咎めもないはずがないと。しかし、私は何の問題なく高校に行くことになった。
「あれはな、俺のミスだったことにしたんだ。幸いなことに、お前は俺以外の誰のも見られなかったからな。俺の実験器具のしまい忘れで、起きてしまった不慮の事故だってことになった」
まさか、そんなことになっていたなんて知らなかった。
「それからだな、理科室は毎回、器具のしまい忘れがないか確かめるのと、窓閉めと鍵かけをしないといけなくなったんだ。でも、安全確認という意味ではいいかもな」
あのとき、先生に二回も救われたのだ。
「それから、ついでに人体模型も設置したんだ」
いたずらっ子のような声。
「知らなかった……」
「そうだろうよ、次の日お前は泣きまくって話しにならなかったもんな。周りは卒業式だから泣いていると思っていたし」
息が詰まる。
「怖かったんだろ、これから自分一人でやっていけるのかって」
口が乾く。
「あれから、八年か……、早いな」
手が震える。
「でも寂しがり屋だったお前が……」
目頭が熱い。
「強くなって戻ってきてくれた」
横を見ると・先生の顔が夕陽に照らされている。あの頃から八年。先生も少し歳を取った。細かな皺が見える。
「成長したお前が見られて、嬉しいんだよ」
そうか、私はこんなにも愛されていたんだ。あの事件以来、私はずっと……。
「ずっと……、嫌われているのかと思っていました。私のせいであんな火事になったから……。本当はこの学校に来るのも怖かったんです。でも、先生に救われた日から、この学校に教師として戻ってきたいっていう気持ちも大きかったんです」
先生に伝えたい気持ちが湧き出てくる。
「良かった……よかった」
頬に冷たいものが流れる。泣いたのはいつぶりだろうか。あの頃から強くなろうと悲しいことがあっても我慢していた。でもこの涙は違う。悲しいんじゃない。重い鎖が外れたような気分。
「あの時は、本当にごめんなさい……」
溢れ出す涙が視界を塞ぐ。
「そんな、泣くまで気にしていたのか。はっはっはっ」
しばらく、涙が止まらなかった。先生もその間、待っていてくれた。あぁ、この優しさは変わっていない。先生みたいな優しい先生になりたい。そう、ずっと思ってきた。いつまでもその優しさに触れていたかった。
「そういえばあのキーホルダー、まだ持っていたんだな」
理科室で無くしたキーホルダー。自分の名前が刻まれたプレートの周りには、花柄の装飾が施されている。卒業式の時、卒業生に配られた卒業記念品である。
「このキーホルダーを見ると、なんだか勇気が出るんです。あの頃の自分をみてるようで……、絶対に教師になるまでここに帰って来ないって。そうしないと、先生に顔向けもできないぞって……」
ポケットからキーホルダーを取り出し、見せる。所々に傷が残り、年月を感じる。
「これのおかげで、私は変われました」
「そうか、それは良かった」
「先生もちょっと変わりましたよね」
「そうか?」
「ちょっと老けました」
「それは、しょうがないだろう」
先生の笑い声が聞こえる。思わず自分も笑ってしまう。
「俺は嬉しかった。お前が教師になってくれて。だから、どうしても立派な教師になってもらいたくて強く言ってしまうこともある」
寂しそうな声色だが、穏やかな顔が見える。
「そんなこと、分かっています」
自然と言葉が出ていた。
「これからも指導をよろしくお願いします」
今日もあの頃と変わらない星たちが瞬いている。
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