放課後の硝子窓 (2)

「川俣先生はあの話、知っているんですか?」

「何の話だ?」

「理科室の幽霊の話です」

「あぁ、知っているよ」

授業が終わり、先生との反省会も終わったため聞いてみたのだが、返事は素っ気ないものだった。あまり噂話には興味はないのだろうか。

「なんだ、怖いのか?」

 先生が私をからかうような微笑みでそう言ったため、少しムッとした。

「そんなことありません!ただ、噂話をご存じなのか、聞いてみただけですから」

私は全ての窓に鍵を掛けたことを確認し、理科室を出た。川俣先生は何か言いたそうな顔をしていたが、私が廊下に出る様子を見て、先生も出てきて鍵を掛けた。

「あれ?この時間でも鍵かけるんですね」

八年前は、朝から放課後まで開けっ放しだった気がするが。

「あぁ、危ないからな。掛けるようにしたんだ」

最近は色々と規制が多い時代だし、昔のようにはいかないのかも知れない。職員室に戻る際に一度振り返ってみたが、ドアの窓硝子には何も映ってはいなかった。



教師というものは思っていた以上に忙しい。忙しさは覚悟していたつもりだが、なかなか慣れるまでに時間がかかりそうだ。目の前に広がる大量の資料に目を通すだけで疲れてしまう。

「葛城。ちょっと来い」

二つ隣に座る川俣先生に呼ばれた。

「はい」

席を立ち、先生の席の方へ向かう。

「葛城、ここが違うぞ」

 研究用のレポートが手元に戻ってくる。

「すみません」

自分で書いた文章の横に赤い線が引いてある部分がある。

「誤字脱字しているぞ!こないだも間違っていただろう」

まずい。また、始まる。

「見直しは基本中の基本だ。誤字脱字なんてもってのほか!研究用のレポートだったからいいものの、これが大事な書類だったらどうするんだ」

周りの先生にも聞こえるため恥ずかしいのだが、始まり出したら止まらないのだ。

「いざというときに失敗しないためにも、普段から注意しなくちゃいけないだろう」

「分かっています」

「いや、分かっていないだろう」

分かっているは失敗だったか。

「こんなんじゃこの先が心配だぞ」

「ちょっとの誤字脱字くらいでそんなに怒らなくてもいいじゃないですか」

「怒っているんじゃなくて、指導をしているんだ」

そうはいうが、先生は鬼の形相で感情が溢れている。

「先生っていうのは、信頼が重要なんだ!生徒たちからの信頼はもちろん、その子たちの保護者からも信頼してもらわないといけない。ちょっとしたミスも積み重なると、信頼を失うことに繋がるんだ。こんな小さいことでも、しっかりやらないとだめだろう」

熱がこもった言葉が続く。

「新任の先生だからって、甘い考えは通じないんだぞ。生徒たちから見れば、立派は先生の一人なんだからな」

一息ついて、また口が開く。

「あと字が汚い」

うっ。もとから字が上手い方ではないことは自覚してはいたが、いざ人に言われると心に刺さるものがある。

「レポートだからって、適当に書くな。もっと綺麗に書こうという努力をしろ。黒板にだって字は書くだろう。その字が下手だったら、生徒たちだってノートに写しづらいだろうし、字が汚い先生なんだと思われるぞ」

耳が痛い。確かに、生徒たちに字が汚い先生と認識されるにはちょっと恥ずかしい。

「だめだ!このままだと転勤先の学校に笑われてしまう。もう一度、今度は丁寧に書いて、私に提出しなさい」

先生は立ち上がると、職員室を出て行ってしまった。

「はぁ……」

少し休憩をしよう。席を離れ、給湯室に向かう。散々言われた後は、気が落ち込んでしまうものだ。珈琲でも飲んで一息つこう。給湯室に常備されているインスタントコーヒーをカップに入れ、電気ポットのお湯を注ぐ。黒く染まっていくお湯。どんより暗くなる私のよう。一口つける。

「はぁ……」

また、ため息が出る。

「そんなにため息ばかりついていると幸せが逃げるわよ」

給湯室の入り口に顔を覗かせる人。山内先生。古株の先生であり、川俣先生と歳も近い女性の先生である。

「川俣先生もあんな強く言っているけど、本当はあなたが先生となって来てくれて嬉しいのよ」

「そうですかね」

「そうよ。だって、あなた川俣先生の生徒だったんでしょ?」

そう。私は、先生の生徒だった。先生に憧れて、自分も先生を目指した。

「誰だって、自分の生徒が自分と同じ先生になって戻ってきたら、嬉しくない人なんていないわ」

山内先生の声は優しかった。でも……。

「あなたもその期待に応えるように頑張りなさい」

期待に応えるという言葉が胸に刺さる。本当はこの学校に来たのも、川俣先生に会うのも後ろめたい気持ちがあるのに……。

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