放課後の硝子窓 (1)

「「理科室には幽霊がいる」」

 そんな噂を聞いたのは今朝のホームルームが終わった後だった。職員室に戻ろうと準備している時に聞こえてきたのだ。大人になった今、オカルト話なんてものは信じてはいないが、生徒たちから聞こえてくる話題には興味がある。噂のきっかけは下校時刻になって、教室に忘れ物をしたことに気づいた女子が理科室を通りかかった時に見たのだという。ドアの窓硝子にぼやけてはいたが、白く、人の形をしたものが見えたと。その子の見間違えと言ってしまえばこの話は終わってしまうのだが、この話を聞いた何人かが本当かどうか確かめにいき、これが本当だという。しかし、怖がって走って逃げてしまうせいなのか、誰も幽霊をはっきりと見たものはいない。ただ曖昧な人影は噂となり、理科室には幽霊がいるという噂話が広まっていった。

 

 教師生活も二週間が経った。桜の花は落ち、若葉が生え始めている時期だ。自分が中学生だった頃には、そんなオカルト話なんてあっただろうか。空調の利いた職員室で自分の青春時代に思い耽っていた。

 ここ岸沼中を卒業して、早八年が経つ。私はその頃からの夢を叶えて、中学教師になった。異世界にも似た雰囲気だった職員室も、こちら側の人間になってみると普通の空間で、当時の印象と比べると拍子抜けしたものだ。外に目を向けると四百メートルトラックが作れるほどの校庭があり、その後ろには連山が見える。都会からはだいぶ離れた土地。全校生徒百人にも満たないこの田舎が当時は嫌で、高校からは東京で過ごしていたが、いざ戻ってみるとなんだか安心した。郷愁というのか、何というか言葉にはできないくらいこの場所には思い出があったのだ。特に、この岸沼中では。

「おい、葛城!ボーっとしているんじゃないぞ。次は研修だろう」

私が座る席の隣に一人の男性教諭が立っていた。そうだ。次の時間は新人教員のための研修があったのだった。研修といっても古株の教員の授業を見学するだけなのだが……。

「早く来い!」

「はい!」

反射的に答えてしまった。理科を担当する川俣先生。妻子持ちの中年である。私の専攻も理科のためなのか、私の教育係として、研修にも付き合ってもらっている。しかし、ちょっとしたミスでも散々注意されることもあり、うんざりしてしまうこともある。生徒たちには人気者で面白い先生として定着しているのだけれど、私にはちょっと厳しいときもある。新人の扱いってどこもこんな感じなのかな。私、先生に憧れて先生になったのに……。



 理科室に着くと、勝手に入るなという紙がたくさん貼ってあるにが目がいく。生徒たちに注意を呼び掛ける紙は、何年も貼ってあるのか外れかかっているものもある。

川俣先生は胸ポケットから鍵を取り出し、ドアの錠を開け、引いた。その瞬間、もあっと理科室特有の匂いがした。これだ。懐かしい。私はこの特別な教室の特別な空気の匂いが好きだった。

「いつ嗅いでも、良い匂いですね」

「そうか?俺は慣れちまっているからな」

スタスタと中に入っていく先生の後を付いていく。中は遮光カーテンで光が遮られていて暗かったため、私は全てのカーテンを引いた。東の空から日が入ってくる。

「そろそろ生徒たちが来るからな。葛城は窓側の空いているスペースで見ていてくれ」

「分かりました」

そう言うと、川俣先生は奥の理科準備室に入っていってしまった。私も大人しく待っていよう。理科室は通常の教室と違い、机が大きく、実験ができるようにシンクも付いている。そこに生徒たちが六人ずつくらいで座っていく。机は前列に三台、後列に三台の計六台ある。私は窓側の机と机の間の少し空いているスペースに待機することにした。

ふっと、例の噂話を思い出した。辺りを見渡すが、どこの学校にも存在するような理科室だ。前には大きな黒板に、後ろには子供の背丈ほどの棚が並ぶ。棚の上部は中が見えるようにガラス張りで、顕微鏡やビーカーなどが見える。ひと際大きい棚には人体模型も見える。その上の壁には、理科室らしい元素記号や宇宙のポスターや、触るな危険と書かれた注意文が大きく張られている。廊下側の壁にも背の低い棚が並ぶ。窓側には長いシンクが二か所、設けられている。机はどれも年季が入っているが、一台だけまだ新しめな机があった。何か違和感はないか見てみたが、私の知っているあの頃の理科室と変わらなかった。

 しばらく待っていると、授業開始三分くらい前になって続々と生徒が入って来た。

「葛城せんせーだ」

「せんせーも授業するの?」

「せんせー、そのキーホルダーかわいいねっ」

元気の良い生徒たちが話しかけてくれた。

「先生も授業受けるのよ。みんな、早く座らないと授業が始まっちゃうよ」

生徒たちは分かってくれたようで、まちまちに席に着き始めた。このクラスは川俣先生の受け持つ生徒たちであり、私はその副担任でもあるため、みんな私のことを知っていてくれたのだ。生徒たちにこんなにも声をかけてもらえるなんて、嬉しいことだ。全員が席に着き終わると、タイミングよくチャイムが鳴った。間延びの良い、高音が鳴り響く。

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